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【時津街道ってどんな道?】
戦国時代、一時は戦国時代島原有馬氏の領地だった浦上は、天正16(1588)豊臣秀吉直轄のとき天領となり、1605年(慶長 10)には南側は天領、北側は大村藩領となった。
そしてさらに浦上川の東側を山里村、西側を淵村とし、大村藩領にあたる浦上は、浦上西村など5つの村に分割された。この浦上を縦断し、長崎から大村へと続く陸路の終点である時津を結んだのが浦上街道(別名 時津街道)だ。
当時、長崎村西坂(長崎市西坂町)から、浦上村山里、浦上北村、滑石村、高田村などを経て、大村藩領である時津村(現在の西彼杵郡時津町)までの距離は3里(約12km)。
そして時津村からは海路7里(約28km)をかけて彼杵宿(東彼杵郡東彼杵町)に辿り着いたのだそうだ。江戸時代、海外の文物を求めて全国の商人や文人墨客が往来した長崎街道は、長崎から東に位置する日見峠を経て、矢上~諫早~大村~松原~彼杵、そして佐賀県の嬉野、福岡県小倉へと続くルートが有名。
だが、このルートは時代によっていくつかのコースがあり、そのなかでも古いコースといわれているのが長崎と時津を結ぶ、この浦上街道だった。長崎から北上し、浦上、滑石を経て時津に至り、時津港から大村湾を船で渡って彼杵へ。
それから嬉野へと辿る浦上街道は江戸時代の中頃まで大いに利用され、様々な人々が往来。なかでも最も有名なのが二十六聖人だった。[ナガジンHPより]